しらたま(@shiratama_8man)です。
自分の選択に息苦しさを感じる。
自分の価値観で選んだはずなのに、
なんでだろう。
長年生きづらさを感じてきた私ですが、
その原因は、思い込みでした。
自分の意見だと思っていたことが、
実は「一般論」が内在化しているだけだった。
周りを納得させられる、
自分が避難されないために選んだ、
消去法で選択した、
本心以外の価値観。
今日はなぜ、
自分が自分の価値観を隠してしまったのかを、
少しだけ掘り下げてみます。
私が無意識に信じてきた「世間の当たり前」という価値観
- ポジティブ教
- 自己価値を高めましょう教
- 女性の幸せはなんだかんだ結婚なのかな教
- 幸せにならないといけない教
- 人から嫌われてはいけない教
- 稼ぐ力がないなら他者に尽くして貢献すべき教
他にも50個くらいあって、
書ききれないです。
でもこれらの宗教をまとめると
世間・普通という言葉になると思います。
物心ついた頃から始まる「世間の当たり前」の刷り込み
強い言い方になりますが、
教育は一種の洗脳だと思っています。
保育園や幼稚園の時代から、
「まわりと一緒」
はみ出さないことを強要される。
世間を知らず、
自分の選択基準が作られていない子供は、
それを信じざるを得ない。
仮に疑問をいだいて、
背いたとしても、
自分の安全な居場所が失われるだけ。
義務教育だけで9年、
高校も含めば12年。
狭い世界に閉じ込められて、
洗脳され続けます。
もちろん、
大学進学後もそれは続きます。
さらに、
社会人になってからは
信仰の強要度が急上昇します。
なので、
洗脳されている自覚は持てず、
入信したことも忘れてしまっていました。
世間のレールを外れたときのほうが、生きやすかった理由
私自身、新卒で入った会社はすぐに辞めてしまいました。
毎日満員電車に乗って、
気温も天気もわからないようなビルの中で、
ひたすらパソコンに向きう。
息が苦しい
と感じて1年で退職。
そこからは、
リゾバ、リゾバで貯金したお金で海外に短期・長期移住。
リゾバ先にそのまま移住などしていました。
職歴はぐちゃぐちゃで、
無職の期間も多い。
でもリゾバ先の同僚は、
同じような状態の人が多かったです。
中には40代の方もいたりして。
で、共通していたのが、
年令問わず、皆さん結構生き生きしていました。
今改めて振り返ると、
私も生き生きしていました。
将来の不安はあったけれど、
じゃあ会社で働き続けていたら安心していたか?
と言われたら、
それはそれで結局不安だったと思います。
将来の不安から「普通の生き方」に戻ろうとした結果
リゾバ時代は週6働いていた日もありました。
でも、苦しくなかったんですね。
それが都内に戻って、
正社員に戻った途端、
毎日が灰色になった感覚がありました。
同僚たちの価値観、
自分を取り巻く価値観が今まで違う。
正社員以外ありえない。
結婚して子供を生むのが普通。
そして会社以外でも、
そういう価値観の人と関わる機会が増えていき、
自分の考え方は楽観的すぎる、
大人としてダメなのかも?
と思い始めて、
再び自分を閉じ込めるようになり、
数年後には適応障害を発症することになります。
関連記事:
適応障害で休職|休職を迷った理由と復職しなかった理由、再就職までの流れ【体験談】
価値観の洗脳に気づいたとき、心はすでに限界だった
そこから時を経て、
教義は呪いだと気づき始める。
でも、
心はすり減りすぎていて、
健康的に考えられない状態。
無気力になり、
自分は無価値だと思い込むようになる。
私の人生は惨めで意味がない。
努力が足りない。
こうなったのは自己責任。
これは私の場合ですが、
そんな風にしか考えられなくなっていました。
世間の刷り込みと思考癖は、想像以上に手強かった
そこからは、
数年単位の時間をかけて、
心の修繕作業をしています。
今もまだまだその途中。
歪みや癖に気がついても、
そこからがスタートなので、
本当に道のりが長すぎて、
気が遠くなります。
苦しいときもあるけれど、
ずっと閉じ込められていた頃に比べたら、
今のほうがいい。
信じさせられていたことが、
全部嘘で、
都合よく社会の歯車になるように
コントロールされていたなんて、
悔しすぎます。
自分のために生きる覚悟が、自己肯定感を回復させた
悔しい
とか、
うんざりだ〜!!
という気持ちが、
良くも悪くも原動力になり
もう世間は信じない!
ここからは好きに自由に生きる!
と、ガッツが湧いています。
常に燃えていたり、
戦闘態勢というわけではなく
基本的には内省している状態ですが、
こうして文字に起こしている時に、
内なるガッツを感じることがあります。
自分のために頑張る、
気合入れて生きてるって、
人生初です。
自分のために戦えてる、
向き合えてる。
不思議ですが、
自尊感情が回復している感覚があります。
根性論は好きじゃないんですが、
自分のために根性出すのは、
すごい爽快感があります。
世間の価値観から距離を取ることで、自他境界が育った
一般的でも、
周囲の人が受け入れていても、
私に合わないもんは合わない。
個体差を無視して、
押し込めようとする風潮は、
不自然で不健康。
自分の価値を、
何かに紐づけて考えさせる社会構造も、
個々をコントロールしやすくするため。
一般論は、
大衆をコントロールするためのもの。
好き嫌いも、
合う合わないも、
自分が感じたまま受け止めれば良い。
そこに良し悪しはない。
自分の中で受け止めるだけ。
それを他者に押し付ける人は、
心や思考の歪みが強い人。
境界線がない人だから、
関わらないようにする。
そう考えるうちに、
人に嫌われることが恐くなくなっていきました。
「生きる意味」を求めすぎる社会はしんどい
生まれたから、生きてる。
ただそれだけでいいって今は思ってます。
自分の存在は奇跡なんだ!
とか、
確かにそうかもしれないけど、
全然ピンときません。
祖父母、
曽祖父母、
そのまた前に生きていたご先祖様
のことを考えると、
受け継いだ命のバトンてやつか〜!
と心から思うし、
時によっては感動します。
ですが、
自分は宝物♡
と思うにはまだまだ無理があります。
特別視しなくていいし、
かといって蔑んだり責めたりする必要もない。
自分=自然の一部
と意識することで、
心の中が静かになる感覚があります。
今もなお、世間の当たり前から解脱する途中にいる
今もまだ、
信仰している宗教はあります。
自覚の有無問わず。
なのでこれからも、
気がついて、
手放して、
自分を自由してあげることが、
生きるってことかも?
と思ったりもしてます。
でもこれも、
生きる意味を無理やり考えているのかも。
意味なんて考えず、
感じることを大切にします。
don’t think!
feel!
この言葉、
若い頃はギャグみたいに捉えていましたが、
いい言葉すぎませんか。
今日も読んでくださり、
ありがとうございました。
それでは、また(^ω^)


